The ISHII Collection of Photgraph/Print with Autograph

ここにはISHIIが収集した音楽家のサイン付の写真、印刷物、手紙などを掲載する。一部サインのないものもあるが、その場合はサインなし、と記載した。


これはWargner自筆の手紙である。ニューヨークで1995年に買った。


これはホロヴィッツが2度目に日本に来た1986年に、ホロヴィッツ・ファン・クラブの会長の加藤京子女史が、横2メートル高さ1.7メートルの巨大な写真を持ち込み、ホロヴィッツと奥様のワンダさんにサインをして頂いたもので、彼女が亡くなられた後、私が引き継ぎました。写真はサインのところだけを撮った。

ホロヴィッツは1983年日本で大失敗したが、医者を替え1985年から徐々に活動を再開し、1986年の2度目の来日時には完全に復活していた。その後も活躍したが、これは1987年のサインである。


これはアンナ・ネトレプコのサインである。英国のロイヤル・オペラのブローシャーにサインしてもらった。

彼女が日本ではじめてサントリー・ホールでリサイタルを開いた時、ジャパン・アーツの関田さんにお連れ頂き楽屋で頂いた。その時は、今ほど有名ではなかったので、こんなことが出来たのだろう。その時私はネトレプコに関するドイツ語の本を持ってゆき、それにサインを貰おうとしたが、彼女がいやがったので、このブローシャーにサインして頂いた。ドイツ語なので読んでいなかったが、あの本には、多分彼女にとって、いやな事が書かれていたのであろう。


これは2001年に会社の25周年記念にサンクトペテルブルグ・フィルを日本に招聘し、記念コーサートを行ったが、その時に庄司紗矢香から頂いた。これとは別な日にはラン・ランとの共演もあったが、サインをもらい損ねた。しかし数年後ラン・ランからもサインを頂いた。(次参照)


これは2005年にラン・ランから頂いた。彼はユニセフの親善大使をやっていたが、小さなホールで行われたコンサートである。彼のサインと彼の父親のサインである。彼とは2001年のサンクトペテルブルグ・フィルとの共演後のパーティで会い、写真も撮った(このHPの初めの写真)それを覚えていて、父親と共にサインをしてくれた。


Yuja Wang


これはアラーニャ、ゲオルギュー夫妻が1996年にMETで行ったLa Bohemeである。当日のプログラムに後日手に入れたサイン付写真を一緒にした。


往年の名歌手、指揮者等のサイン付写真/手紙


Joan Sutherland


ビルギット・ニルソン


レナータ・テバルディ


Luciano Pavarotti 1989


ジュリエッタ・シミオナート


ジェームス・モリス


指揮者のクナッパーツブッシュ夫妻


レナード・バーンスタイン1970


ゲオルグ・ショルティ


オイゲン・ヨッフム


ロリン・マゼール


クラウディオ・アバド


アルブレヒト


小澤征爾、ズビン・メータ、フランツ・ウエルザー・メスト、ダニエレ・ガッティ、クリスチャン・ティーレマン


カルロス・クライバー


1918

ブルーノ・ワルター自筆の手紙

この手紙をfacebookに上げた所、ご親切にも野沢敏郎様が次のような解説をお寄せくださいました。

 

野崎敏郎様のコメント

 

この書簡は、ヴィーン宮廷歌劇場宛のもので、書簡の現物は、ヴィーンに送られたので、ヴァルターの手許にはないのですが、彼は、この書簡を、自分で書きうつし、その控えをずっと保管していたようです。

Abschrift des Briefes an die Generalintendanz der Wiener Hofoper
München, d. 15. III. 1918
An die K. u. K. Generalintendanz des K. K. Hoftheater[s]
hierdurch beehre ich mich gemäß
§2. meines Vertrages vom 8ten November 1912 ergebenst anzufragen, ob die K. u. K. Generalintendanz auf meine Wiederübernahme in den Dienst der Hofoper reflektiert und verharre inner K. u. K. Generalintendanz
Hochachtungsvoll ergebenster
Bruno Walter
K.b. Generalmusikdirektor

K. u. K. “Kaiserlich und Königlich 

k.k. “Kaiserlich-Königlich“

k.b “Königlich-Byerisch“

 

訳:

 ヴィーン宮廷歌劇場総支配人宛書簡の控え
ミュンヒェン、1918年3月15日
オーストリア帝国宮廷劇場総支配人様
本状を以て、1912年11月8日付の小職の契約第2条に則り、オーストリア帝国総支配人様が、宮廷歌劇場の職務に小職を再起用なさることについて、熟慮賜りましたかどうか、謹んでお伺いする次第にございます。そしてオーストリア帝国総支配人様のご意思に従う所存にございます。
敬具
ブルーノ・ヴァルター
バイエルン王国宮廷歌劇場音楽総監督


ヴァルターは、1901年から1913年まで、総監督マーラーの下で、この歌劇場の音楽総監督を務めていました。その後ミュンヒェンに移りますが、ヴァルターは、再度ヴィーンの職に就きたい旨を、すでに劇場総支配人に依頼しており、この書簡において、その返事を催促しています。しかし色よい返事はなかったようで、彼は1922年までミュンヒェン歌劇場にとどまることになります。これは、彼が、ヴィーンを離れ、ミュンヒェン、ベルリン、ライプツィヒへと渡りあるくなかで、ヴィーンに戻りたいという強い意向を抱いていたことをしめす書簡(の控え)として、価値のあるもののように思います

 

白水社の書簡集を読みました。1918年はドイツ革命の年で、そのことがこの書簡となにか関係があるのではと感じていましたが、予想通りでした。
ヴァルターは、このとき、政情が極度に不安定なミュンヒェン(バイエルン)から、ヴィーンへと《避難》しようと画策していました。そのことは19181121日付両親宛書簡からわかります。また、翌191961日付両親宛書簡では、ミュンヒェン歌劇場が財政破綻に陥りそうだと懸念しています。そして、二週間ほどヴィーンで演奏会をこなし、ヴィーンの雰囲気がとてもよかったことを語っています。
これで、彼がこのときミュンヒェンに見切りをつけようとしていたことがはっきりしました。芸術家として、ミュンヒェンで満足のいく仕事はもはやできないだろうと判断し、また、ユダヤ人として、身の危険を感じとっていたのです。こうした時代背景から、彼の言動の意味を読みとることができます。


イゴール・マルケヴィッチ

1965.5.1日フィルとの共演


ピエール・ブーレーズ


クルト・マズーア


エリアフ・インパル


サイン付写真はまだまだ有りますが、今後掲載いたします。


以下はサインはないが写真である。


Maria Callas


A. Toscanini          V. Horowitz             B. Walter


Vladimir Horowitz


これはRafmaninoff  18歳の時の写真の印刷版である。エジンバラの骨董屋で見つけた。人気があったので

ブロマイドである。


ポスター

これは1967-68シーズンのPhiladelphia Orchestra の演奏予定チラシである。


これは78回転盤レコードのポスター






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